風呂場で天使が死んでいた!

 およそ健康的ではない暗さの中、ベッドの上で目が覚める。起きてすぐには動かない体だが、紛い物の温かさで冬の寒さをごまかしている感覚に耐え切れなくなってくると、しばらくして時計のボタンに手を伸ばす。ライトがついた液晶に写ったのは、「4:13」。朝でも夜でもないような時間。僕以外はまだ寝ている様な、そんな時間。

 次第に意識がはっきりしてくる。十二分に寝たせいで、二度寝することもできないことが自明なために、とうとう体を起こす決心をした。眩しさを嫌って電気はつけなかったが、それでも寝起きだと視界が霞んで見える。眼鏡をかけても変わらないのだから、目の問題だろう。実際、目に何かまとわりついている感覚があった。寝起きだから仕方ないのだろうか? 前まではこんなことなかった気がするが。最近は足の先もすごく冷たく感じるようになったし、どうも様子がおかしい。

 物憂げに体を起こした後は、洗面所に向かう。ここでは流石に電気をつけた。部屋と違ってここの光は暖色だし、目がしょぼしょぼすることもない。

 鏡の前に立った僕は、人生のあらゆる出来事に架かっている失敗という橋を、叩いて確認するしか能がないように見えた。どこで道を間違えたのか。気づけば周りには誰もおらず、一人寂しく部屋に引きこもっている。自分では何もできなくなったと思っているが、正確には何もしたくないだけのどうしようもないヤツ。無意味さの象徴。ボサボサの髪の毛が、無能感に拍車をかけている。

 …良くない。鏡で自分の姿を見るといつもこうだ。愛だの、存在理由だの、アイデンティティだの、何かにつけて意義や意味を考え出して、自分の首を絞め始める。悪い癖だ。

 それもこれも全て、あの日心についた大きな瑕が原因だった。それが僕に人を、現実を愛させまいとしている。それからと言うもの、どんなに頑張ってもこの世界の生き方を思い出せない。今までの生活を想起できない。一生懸命やってきた僕と言う人間は、どこか彼方に葬られた。僕は殺されたのだ! あの憎き一人の人間によって!

 全てを失うことに怯えた僕は、詩の世界に逃げこんだ。人間を、そして世界を憎む詩人たちの世界を探してきては、そこに浸った。自分の心を彼らの言葉に乗せることが、目的だった。閉め切ったカーテンの向こうでは星たちが瞬いているが、そんなことは関係なしに、僕はひたすら紙上の文字の集合に目を凝らした。その時だけは、心地よかったのであった。

 そんなことをしていたせいであろうか。僕の中にはぼんやりと彼女が現れ始めていた。淡く艶やかなベージュの長髪と、光の加減でパステル調のピンクにも水色にも見えるような不思議な装いをした、儚げな面持ちの女性。後光と共にその妖艶さを最大限に纏うような煌びやかな肌をもち、背中にはその体の大きさには少々見合わないほどの純白の翼が生えている。僕は特定の宗教を信仰しているわけではないが、それは確かに天使と表現するに相応しい姿だったと思う。少なくとも聖女というイメージではなかった。彼女は若く、二十歳には届いていないといった雰囲気で、年相応のあどけなさと若干の大人びた思慮を含んだ笑顔を僕に向け、優しく語りかけてきた。甘い言葉だった。彼女は舞い降りてきたあの日から、いつも僕を慰めてくれたのだ。

 彼女は言った。もういいんだよ、と。嬉しかった。人生の中で、初めて他者に認められ、愛された瞬間に違いなかった。恍惚だった。それと同時に、僕は彼女の体から出るピンク色をした鱗粉を吸った。彼女の甘い毒にやられて、僕はこの先も生きていけるのだと確信した。救いだったのだ、彼女は。

 僕には彼女がいるのだ。心配することはない。思い出してから、頭の中で反芻する声をなんとか振り切って、顔を洗い終える。おかげで視界はクリアになり、一時的にも清々しい気分すら得られた。また今日が始まってしまう。何もない今日が。それなら、今だけでもこの気持ちを堪能しておかなければ… そうだ、また逃げる先を見つけなければ。今日はどんな世界に浸ろうか? タオルで顔を拭きながらそんなことを思っていると、不意に水音が耳に響いた。背後のお風呂場からだった。

 しまった、と思った。それはシャワーのヘッドから水がポタポタと落ちている音に違いなかった。昨日、お風呂に入った時以来、栓をしっかりと閉め切れていなかったのだ。あぁ、水道代が…

 そうして、後ろを向いて、そして、蒼褪めた。あろうことか、お風呂場で、彼女が死んでいた。僕の天使が、死んでいた。

 僕には分かった。扉を開けずとも彼女の姿が見えた。曇りガラスの向こうで、涙を流したまま首を吊って死んでいる彼女の姿が。そうだ、あの水音はシャワーの閉め忘れなどではなかった。他でもない、彼女の涙だったのだ。

 彼女の体は冷たかった。ベージュの髪は中途半端に濡れ、その艶やかさの一切を失って、無気力に垂れ下がっている。身を覆うほどの大きな翼はしおれ、彼女の両側面に掛けられているだけで、今にも落ちそうだ。あれだけ興奮を覚えさせた妖艶な肌は、きっと血の巡りを失くしたのだろう。生物的な脂を滲ませ、あとは腐っていくだけなのだと、そう感じさせた。

 彼女にはもうほとんど色が残っていなかった。薄暗いこの風呂場において、彼女の存在はほぼグレースケールのオブジェクトになっていた。そして、僕の世界の色すらも…!

 僕は気づいた。そろそろ現実を見るべき時なのだと。自分と、それ以外の実存を愛するべきなのだと。だが…それは叶わない! 彼女の姿を忘れられない! 僕に現実を忘れさせてくれた彼女のサイケデリックな詩歌世界が、そしてそれが彩度を失っていく死の光景が、この世の何よりも恐ろしく、美しかったから。この目に焼き付いて二度と剥がれることなどあり得ないから。

 まだ、受け止めきれてないのだろう。呆然と立ち尽くしている。興奮している。それでも僕は、この期に及んでまだ逃げ道を用意していたかった。そうさ。眠ってしまえばいい。それで次に目覚める頃には、また彼女に会うことが出来る。彼女は甦るんだ。そうだ。僕もすぐにそっちに行くよ。だから、もう少しだけ待ってておくれ…

 ベッドの上に横たわる。人工的な温もりに包まれたまま目を閉じる。シャワーの栓は閉めなかった。僕は彼女の涙を止める勇気はおろか、その資格さえも持ち合わせてはいなかったから。思えば僕は、最後まで彼女の体がもつ温もりに、柔らかな唇に触れることが出来なかった。そして彼女も、そうしないようにしている僕を褒めることは、遂に出来なかった。

 風呂場で亡骸となった彼女の姿を想像すると、まだ興奮した。こんな状態で眠れるかな? 少し不安だ。だけど一つだけ、分からないことがあった。彼女はどうして泣いていたんだろう。その答えを知るには、僕はどうせ能無し過ぎるのだろうな。

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